《だんじり唄のルーツは?》

南淡路の春はだんじり唄に乗ってやってくる。3月上旬から5月上旬にかけて毎週どこかの神社で春祭りが行われ、そこで奉納されるのが『淡路だんじり唄』である。かつては青年団や祭礼団が主にその役割を担ったが、若者の島外流出により近年、町内会あげての重要な行事になっている。

淡路島に台尻(壇尻の始め)が入って約320年以上になる。初めの頃は、ただ拍子木に合わせて掛け声をかけたり、簡単な囃子をしていた程度であったが江戸末期から明治の初めにかけて、伊勢音頭や祇園ばやしのほか、各地の民謡などを取り上げて唄らしくなってきた。

  明治20年頃、島内各地でふとん壇尻が造りだされたのを機に、淡路独特の民俗芸能である《だんじり唄》となった。だんじり唄は別名「浄瑠璃くずし」とも言い、淡路人形浄瑠璃の外題(演目)や歌謡浪曲をもとに、名場面を抜き取り脚色し浄瑠璃や民謡調の節回しを付け、さらに日本の伝統芝居、話芸などを取り入れながら、独自の団体芸に昇華した、淡路島の代表的な郷土芸能である。
 この芸能の背景には500年の伝統を誇り文楽人形のルーツともなった淡路人形浄瑠璃の存在がある。
だんじり唄が現在の形で唄われるようになったのは大正後期から昭和の初期にかけて多くの先人達により育てられ、特に阿万地区の師匠達が各地の祭礼団に招かれ普及に努められた。南あわじ市阿万地区の発祥から『阿万節』と呼ばれる。

 唄は太鼓、拍子木のリズムに合わせ、威勢よく唄う「ツレ節」(全員でうたう合唱)を基に浄瑠璃調の「語り込み」と民謡調の「振り」と呼ばれる独唱部がある。この二つの独唱部は物語の状況や登場人物の動作、心理を説明する役割を持ち、観客が目を閉じて聞いていても容易に筋書きが分かる。唄の合間に登場人物のせりふ「ことば」が入るが、老若男女を使い分ける演技は歌舞伎役者も真っ青の迫力で観客を魅了する。
 そろいのハッピを着た20人から30人の祭礼団員が、だんじりの中で子供達(乗り子)がたたく太鼓にあわせて演ずる姿はシンプルそのものだが、全身の力を振り絞って出す唄声や、登場人物になりきった迫真の演技は、日ごろの稽古の成果である高度なテクニックに裏打ちされ、観客を物語の世界へひと時いざなう。

 祭礼当日、神社の拝殿正面に壇尻が据えられると境内の参拝の人たちが壇尻の周りに集まってきて、これから始まろうとするだんじり唄に聞き耳をたてる。 拍子木を合図に「ダシ」からはじまり「連れ節」から各人が役者になりきって熱唱するだんじり唄は祭礼の花形となり、各地区の出し物(外題)を知って参拝者は楽しんで出かけて行く。

 なお、このほかに伊勢音頭に端を発する「祇園ばやし」や「木遣り唄」などが壇尻の道中唄や奉納唄として各地で唄われているのも忘れてはならない。

  最近になって、各地区の文化芸能祭や淡路だんじり唄コンクール、だんじり唄交流会などで多くの団体が参加するようになった。これだけ高く評価される「だんじり唄」は皆の心にいつまでも残る地域の伝統芸能として不滅さを物語っている。

 外題は数十に及び、有名なものとしては、「傾城阿波鳴門巡礼唄の段」、「仮名手本忠臣蔵三段目」(刃傷松の廊下)、「三国伝来玉藻前三段目」(金藤治上使の段)、「朝顔日記」(大井川の場)、「孫市」(絵本太閤記七段目 杉の森の段)、「いざり」(箱根霊験記十一段目 箱根瀧の段)、「小桜責め」(源平布引滝 松並検校琵琶)などがある。

 なお同様の節回しによる新作物として、「岸壁の母」、「王将」、「番場の忠太郎」、「大利根無情」などもある。

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